日曜日の静寂

静かに。そして、強く生きていきたい。一口馬主とFXと。

三沢光春選手の命日

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本日6月14日はプロレスラー三沢光春選手の命日だそうです。

僕にとっての三沢光春選手は、まずはタイガーマスク。
小さいとき、タイガーマスクは全日本にいたなぁ。
当時は土曜日の夜に放映されてた。
確かプロレスが終わったら俺たちひょうきん族って流れだったから19時に放映されていたのかな。
でも、小学校高学年になったころには、もうゴールデンタイムに放送されていなくて夜中に移ったころじゃないかな。もう見なくなってた。
弟がプロレスが好きでずっと見てたんだよね。VHSのビデオに毎週欠かさず録画してた。
ある時、暇で見るものがなくて弟がとったプロレスでも見てみるかと。

当時ちょうど天龍源一郎選手が全日を離脱、SWSを旗揚げしたくらいだろうか。
鶴田はいるけど天龍はいない。当然小さい時見てた長州もいない。
わかる選手はタイガーマスクとジャイアント馬場。あとはスタンハンセンくらいかな。
そんなタイガー、なんか見たことない若いのと組んでる。
しかし、天龍がいない以上タイガーマスクあたりがのし上がっていかないとどうにもならないんだろうなぁなんて見てたら、突然マスクを脱ぎ始めた。
えっ?見方が紐をほどいてる?よく見たらタイガーも外してくれみたいなジェスチャーしてる?
あれ??
という間に、マスクを脱いだ。
三沢光春の登場だ。
久々に見たプロレスがこれだった。

その後も気になってしまって全日本プロレス中継を毎週見始めた僕。
三沢が三沢光春としてジャンボ鶴田に挑んだ。
丸め込んでの3カウントは痺れた。
夜中に絶叫したのを今でも覚えてる。

その後三沢光春はジャンボ鶴田のライバルとなり、三冠チャンピオンになったり陥落したり。
鶴田からとってもハンセンに奪われる。そんな全日本プロレスは面白かった。
その後世代交代も進んでいき、三沢光春を中心として、小橋、川田、田上と、のちの四天王といわれる4人に秋山準、ノーフィアーの高山・大森と、日本人レスラーも枚挙にいとまない。
そんな中でも外国人レスラーもすごい。まずは殺人魚雷コンビのテリーゴディ・スティーブウィリアムス。
殺人魚雷コンビVS三沢・川田組の世界タッグ戦は今でも思い出す。
テリーゴディが三沢を場外パワーボム。そのまま失神して、川田が一人で奮闘。
あわや3カウントかというシーンも何度もありながらも、さすがに一人は厳しく。
しかし、あの時、三沢・川田組をものともしない殺人魚雷コンビに戦慄を覚えた。
それ以外にもタッグでいえばノーフィアーがアジアタッグから世界タッグへとクラス替えというか、日本人タッグも面白いタッグがどんどん出てきた時代だ。

そんな時。鶴田も病気のためほぼ引退状態最前線にはいないという状態で三沢の天下統一ムードが高い中小橋や川田が上がってきていて最高潮に盛り上がっているタイミング。
突如として三沢が退団新団体旗揚げというニュースが飛び込んできた。

三沢のみならず、川田、渕を残したほとんどすべての選手が三沢の作る新団体NOAHに移籍するという。
川田は三沢の後輩ではなかったのか。と思ったのは今になってはいい思い出か。

全日はつぶれる危機に直面。
三沢率いるNOAHは、三沢がやりたかったことを次々実現していくように見えた。
そんな時、三沢を永遠の恋人と言ってはばからない武藤敬司が突如として新日から全日へ移籍。
当初は武藤が移籍して全日へ。橋本が新日を出て外部の新団体ZERO-ONEの旗揚げということからも三銃士でプロレス界を席巻するつもりなのか、いよいよ統一かと思われたが、現実は武藤は本当に全日に、橋本は本当にクビになっての新団体旗揚げだったことがわかる。
橋本に至っては、新日とも全日とも絡みがないことからも旗揚げ戦で三沢と対戦することになる。
この時点では全日系選手と新日系選手が激突することは下のクラスの若手が移籍した以外ではほぼあり得なかった。
全日の三冠王者と新日のIWGP王者経験者がまだまだトップを張っている段階での対戦だ。
何とも言えない緊張感と、見てはいけないものを見るような感覚は今のプロレスでは味わえない感覚だ。

三沢光春は、その後NOAHのベルト、GHCを創設し、初代チャンピオンになる。
またGHCタッグも戴冠している。

また、全日時代若手の時に一緒に釜の飯を食ったとされる冬木(サムソン冬木)の引退興行を仕切ったりしている。
晩年は引退を見据えて、プロレスラーの第二の人生の受け皿になる何かを模索していたと聞いている。

そして、リング禍。最後は頸椎を骨折し、そのまま意識がなくなりなくなったそうだ。
直接技を下した選手はその後号泣し謝罪しているが、その選手が一人でやったわけではなかろう。
ここまでの長いプロレスラー生活で痛めてきたものが最後に出たのだ。
その後、三沢光春はおそらくその年か翌年の早いうちに引退するつもりで近々表明する予定だったとのこと。体が悲鳴を上げていることを自らもわかっていたのだろう。

私は三沢光春が三沢光春としてプロレスを行っていた期間の大半を三沢を見たくてプロレスを見ていたひとりだ。

地元に興行できた時のことも忘れない。
ちょうどその日は珍しく地方の興行にTVが入っていた。
なぜなら、その日、NOAHに初参戦したのが新日本プロレスの永田裕二だ。
当時はIWGPを10連続防衛という前人未到の記録を作って今はベルトなしというタイミングで、ライバルで盟友の秋山に招かれ参戦したのではなかったか。
その初参戦が地元富山県であった。
当然その試合を見ようと、三沢が控室から出てきた。
ちょうど僕の真後ろで腕を組んでみていた。
小川良成選手と一緒に見ていた。
あれだけのオーラをまとった選手だから周りのファンは気づくわけで。
三沢選手握手してくださいと、試合そっちのけで三沢選手に群がる。
いやな顔一つせず、前だけ開けてね。試合見たいからと言いながら握手、サインをして回る。
小川選手は俺には誰も来ん!と笑いながら愚痴ってた姿は今でも忘れられない。
永田選手は当然のごとくあっさりと勝つんだが三沢が控室に戻る前に一言
【やっぱいいもん持ってんだよなぁ】と言いながら帰っていたのは、深いなぁと思ってみていた一幕だ。

そんな三沢選手がなくなったとき、私は地元の銭湯でふろに入ろうとしていた。
後輩からメールが。
【三沢、死んだって?】
おいおい、今から風呂に入ろうとしている俺にどんな悪い冗談を言うんだよ。
【三沢が死ぬ要素、どこにもないやろ?ガセネタつかんでんじゃねーよ】
と、メールを返しつつ浴場へ。
サウナに行くと、ちょうどニュース番組をやっていて。三沢光春選手死去のニュースが。
リングでAEDや、人工心肺蘇生などやられているシーンが流れる。
マジか。本当だったのか。。。

私にとって有名人の死というのが身近に感じたのがこの時が初めてでした。
プロレスラーでも私が認識できている範囲でいえばジャイアント馬場選手がなくなったときも認識はありますが、あまりにも離れすぎているので、ピンときませんでした。
三沢選手の前に橋本選手もお亡くなりになられていますが、この時もショックは大きかったですが、三沢選手のほうがより見ていたというのもあって、わがことのように、自分の家族がなくなったようなショックが襲いました。

今はアントニオ猪木選手もお亡くなりになられ、三沢、橋本、、、
当時のライバルである長州力、天龍源一郎や四天王小橋、川田、田上。三銃士の武藤、蝶野。
元気ではいますが、みんな引退(蝶野選手は正式に引退はしていませんがほぼ引退状態)しています。
すでに新しい世代も2つも3つも世代が進んでいます。
現在日本プロレス界の頂点はオカダ・カズチカといっても過言ではないでしょう。
1つ前の世代で三沢選手から見たら2つか3つ後の世代である棚橋選手もIWGP最前線とは言えず、オカダ、内藤、SANADAといった若手が中心になってきています。
また、新日本プロレス一強といってもおかしくない勢力図になっています。

これを見て三沢選手は何を思うのでしょうか。

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