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リーディングサイアー~ノーザンテーストからディープインパクトまで~ - 4

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歴史は紡ぐもの
サンデーサイレンス

94年が産駒がJRA初参戦となった。その名もサンデーサイレンス。
社台グループが持ち込んだ種牡馬である。
サンデーサイレンスは幼駒時代は全く見栄えのしない真っ黒な馬体で、端的に説明すると嫌われていた。
セリに出しても値もつかず、毎回主取り(出品者が買い戻す)となっていた。
しかしながらデビューするとサンタアニタダービーでG1勝利、続く米クラシック最高峰であるケンタッキーダービーを勝ち、続くプリークネスSも勝利。クラシック二冠馬となる。
同世代にはセクレタリアトの再来とまで言われたイージーゴアがいたのだが、イージーゴアはサンデーサイレンスの後塵を拝し続けていた。
三冠がかかったベルモントSで、イージーゴアに負けてしまうがその後BCクラシックを勝利し、アメリカの年度代表馬に輝く。
しかし、足が曲がっているなど、見栄えのしない馬体のサンデーサイレンスは、米種牡馬としてはあまり評価されていなかった。そこに目を付けたのが社台グループ総帥の吉田善哉である。
吉田は1990年にサンデーサイレンスの1/4を買い取っており、ハンコック(馬主で生産者)との交流もあった。アメリカでシンジケートを組んだ際には3口しか応募がなく種牡馬になれない可能性が高かったこともあり、吉田は日本で種牡馬をさせたいと、買取を打診。
ハンコックは牧場経営についても負債が多く、サンデーサイレンスを売却することにした。
売却額は当時のレートで約16億。おそらく米国での評価を考えると破格だったであろう。
そんなサンデーサイレンスが日本にやってきた。
初年度から3歳(現2歳)時に3戦3勝で朝日杯を圧勝し、明けた4歳弥生賞を4戦無敗で制したフジキセキが登場する。
弥生賞の後に怪我をし引退を余儀なくされたのだが、皐月賞は同じくサンデーサイレンス産駒のジェニュインが勝利。続くダービーはこれまた同じくサンデーサイレンス産駒のタヤスツヨシが勝利。
三冠最後の菊花賞は前年に三冠馬ナリタブライアンを輩出した、ライバルとなる種牡馬ブライアンズタイム産駒のマヤノトップガンが勝ったとはいえ、サンデーサイレンス初年度産駒牡馬だけでもいきなり3頭のG1馬を輩出する。
その後初年度産駒牡馬としてはマヤノトップガンとサクラローレルと3強といわれたマーベラスサンデーが宝塚記念を制している。
初年度産駒牝馬からも、ダンスパートナーがオークスを勝利。牡牝ともに初年度産駒でG1馬を輩出した。
翌年はイシノサンデーが皐月賞を勝利。夏にはダービーグランプリを制し、ダートでも走ることを証明。
結果、13年連続リーディングサイアー、そして、毎年G1馬を輩出。次々と日本の種牡馬の記録を塗り替えていった。
中には無敗の三冠馬ディープインパクトが晩年登場し、そのディープインパクトは父サンデーサイレンスの種牡馬としての記録を塗り替える活躍をした。
種牡馬にはなれなかったがどこまでも先頭を走ってゴールするといわれたサイレンススズカや自身は日本でG1を勝てなかったがその仔が日本で三冠馬となるステイゴールドがいたり、サンデーサイレンス系が日本の競馬を席巻する時代になった。
サンデーサイレンス導入時吉田氏は、ノーザンテースト(ノーザンダンサー系)の血の飽和を懸念していたといわれていて、そのためリアルシャダイやトニービンを導入し、非ノーザンダンサー系ということでバランスを取ろうとした一環でサンデーサイレンスを導入したといわれている。
しかし今、そのノーザンテーストの系統、リアルシャダイの系統、トニービンの系統がサンデーサイレンス系にすべてとってかわられたような状況となり、かろうじてキングカメハメハ・シンボリクリスエスの系統が少し伸ばしていている状態だ。

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