日曜日の静寂

静かに。そして、強く生きていきたい。一口馬主とFXと。

一口馬主~キョウトシチー・タップダンスシチー・クラウンシチーと~ - 2

一口馬主研究会

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一口馬主クラブ

キョウトシチー応援団のことが気になった僕は家に帰って週刊競馬ブックを広げる。
【がんばれシチー軍団】ということは、シチーという軍団があるはずなんだよな。
おっあったあった結構よく出走してるなー○○シチー。
そもそもシチーってなんだよ?シチューでもないし。。。
馬主の名前は...友駿HCと。
優駿じゃなくて友駿ってwそして、HCってなんだよ。社台RHなら、レースホースだけど、HCって?ホースC。C...クラブ?何のクラブ?

と、調べれば調べるほどわけのわからない馬主。友駿HC。それでも深く調べていくとわかってきた。
ようは、競走馬の一部を持つことができる金融商品を運用しているのが友駿という団体だということが分かった。

一口馬主の資料カタログの取り寄せ

当時は、週刊競馬ブックに、一口馬主クラブが広告を掲載していた。
まずは、キョウトシチーの友駿HC。あんな強い馬がいるんだから、やっぱ良いんだろうと思って資料請求。
そのほか、サンドピアリスという馬で芝のG1であるエリザベス女王杯を勝った馬を擁するヒダカ・ブリーダーズ・ユニオン、それと、シルク○○で、有名なシルクホースクラブ。あと、回収率重視と、しきりにうたっていたエプソム愛馬会の資料を請求。
調べていくうちに、わかってきたのは日本の競馬を席巻している黄色の縦縞。社台RH。これもクラブらしいことがわかってきた。
当時グリーンチャンネルの番組によく登場していた人たちがあの馬私出資してるんですよなんてよく言ってた時代だ。
ただ、社台は当時から40口募集で、最低でも一口50万円から。当然維持費も月数万円レベル。
おまけに当時は収入証明が必要で、年収500万以上ないと入会できないみたいな噂があった。(本当かどうか全く持って不明だが)20代前半。年収300万あるかどうかの僕には敷居が高すぎると考えていつか。。。と思って資料請求はしなかった。

友駿HCに入会

結局僕は友駿HCに入会した。
理由を説明しておこうと思う。
ユニオンは、カタログもきれいだったし、それなりに聞いたことのある種牡馬産駒の馬が多く、見ていてもワクワクするのが多かった。
その中でも当時は新種牡馬だったメジロライアン産駒の牡馬が2頭ほどラインナップにいて、僕の当時の種牡馬評は、2000mや2400mのG1で惜敗するけど、2200mのG1で勝ったメジロライアンは種牡馬としては万能タイプで、走る馬は走るはずという考えだった。そのメジロライアンの初年度産駒に出資できるのなら、これは良いなと思っていた。
確か100口募集で総額1600万円、だから、16万くらいの出資金額だったと思う。
シルクHC。コチラは当時から500口募集の小口クラブで、当時は一番の小口クラブだったと思う。
お金のない僕にとっては、同じ1600万の馬なら、100口募集なら1頭、だけど、500口募集なら同じ支出で5頭持てるなという魅力があった。
結局入会に至らなかったが、5年ほど、毎年カタログは送られてきていて、1頭目に留まった馬がいた。
シルクプリマドンナだ。
シルクHCは当時は早田牧場が主たる牧場として運営されていたクラブで、当時の早田牧場はブライアンズタイムを種牡馬として持ち込んだ牧場だ。
社台のサンデーサイレンスやトニービンとしのぎを削っていた種牡馬だ。
なので、シルクの募集馬にもブライアンズタイム産駒はかなり多くいて、募集馬の種牡馬の質でいえば小口クラブNo1だっただろう。
当時はいらなかった理由は勝負服だ。青に赤の水玉模様がどうにも好きになれず。。。
もし、友駿ではなくシルクでスタートしていたら、もしかしたら、シルクプリマドンナに出資し、すぐに良い思いをすることになるので、今日に至るまでずっと続けていたかもしれない。
エプソム愛馬会については、資料が送られてきてから、毎日のように営業から電話がかかってきた。
どうですか?この馬いいでしょ?私も一口もってますよなんて電話がかかってきた。
僕がこの後友駿を退会して一口馬主に10数年手を出さなかったのはこの電話のトラウマからだ。
資料請求すると電話がかかってくるんじゃないかという恐怖から逃れられなかった。
今思えば電話してきたのはエプソムだけで、他は毎年募集馬がでたらカタログを3年くらい送ってくる程度だったが、あまりにも強烈で、忘れられない事態になったのだ。
そんなエプソム。営業が電話してきて必死なのに、満口にならない。
いや、当時満口なんて社台くらいしかないのかもしれないが、あの必死さが逆に危うさに移っていて、まあ正しかったのだろうが、エプソムには入会しなかった。その数年後にいろいろ問題が起きて消滅してしまったのだ。

友駿に入会したのはいくつか理由がある。
まず一つは大きなことだが、現地でキョウトシチーと、その出資者たちを見たのが一つ。
あの輪に入りたい、自分の出資馬が地方の交流重賞でも勝ってくれたら、あの喜びを一緒に味わえるのなら。と。
今思えばキョウトシチーにいまから出資できるわけでもないし、他のクラブでもそういう馬が現れる可能性はあるし、本当に今思えばNo1ではないにしても、サンデーの下という位置づけのブライアンズタイムの産駒に出資し放題だったシルクに入らなかったのが今でもよくわからない。
友駿とは今の一口馬主、金融商品としてファンドとして競走馬を共有(厳密には競走馬が稼いでくる賞金や維持費の共有)できるように作った老舗のクラブだ。
当時も社台には勝てないが、クラブとしてはそれなりの成績順位だったし、過去にはゴールドシチーでG1(当時はまだグレード制が導入される前)を勝ったりしていた。
そして、何より、重賞馬のクラウンシチーの権利が1/5000だが、無償で付いてくる。
今はダメなのかもしれないが、当時は無償なら現役馬の権利を付与することができたようで、重賞を勝っているクラウンシチーの権利が1口もらえるというのは入会動機としてはかなり強いファクターになった。
そして、当時の友駿には何頭かまとめて出資ができるパックセットのようなものがあり、1頭ずつ出資するよりちょっとだけ安価に出資できるパックがあった。
3頭1パックで10万だったと思う。
けっか、このパック1つと、当時信じてやまなかった、トウカイテイオーの父であるシンボリルドルフ産駒、母の父がミスターシービーという三冠一族の牡馬が5万ほどで、その馬1頭へ出資。
あと、当時すでにクラシックレースを軒並み奪取していたサンデーサイレンス産駒が1頭特別募集で、6000口1口1万というのがあった。
この4頭で16万。おまけでクラウンシチーの権利が付いてくる。友駿HCへの入会が決まった。

外国産馬

当時カタログには、特別募集馬が3頭載っていた。
1頭は出資を決めたサンデーサイレンス産駒、そしてもう一頭はブライアンズタイム産駒だった。
3頭目は通常の500口募集だが、外国産馬の募集だった。種牡馬はプレゼントタップ。
募集当時はプレザントタップ自身は新種牡馬で、まだ活躍馬はいない状態で、おまけに当時主流だったノーザンダンサー系でもなく、日本で猛威を振るっているサンデーサイレンス、ブライアンズタイムのヘイルトゥリーズン系でもない。
トニービンはナスルーラ―系に属すると思うが、このプレゼントタップは系譜をたどるとリボーという種牡馬に当たるリボー系と言われる系譜だ。
ふた昔ほど前に流行した系統で、気性が荒い馬が多いことで有名だった。
世界はノーザンダンサー系に染められ、肌がナスルーラ系やリボー系という組み合わせが多くなり、次第に種牡馬の系統からは薄く小さくなっていっていた。
そんなタイミングでのリボー系種牡馬のプレザントタップ産駒、海のものとも山のものとも言えない。募集価格は3000万。
当時の友駿は500口募集なので6万円の出資金だ。
今の僕なら、血統的な要素はちょっと不明な点が多いが、節が頑丈に作られていてがっちりした体型を見たら、とりあえず1口だけ行っとくかと思っていただろうが、20代前半の貧乏人だ。
16万円の出資を決めてから、さらにこの馬に追加で出資するだけの余裕はなかった。
また、当時は内国産奨励賞意外に、父内国産馬奨励賞という付加賞があり、出来るだけマル父といわれる、父親自身が内国産馬の馬が欲しかった。例でいえばシンボリルドルフや、メジロライアン、ラグビーボールとかだろうか。また、そのころの外国産馬といえば大樹RCだろう。タイキブリザードが安田記念を買って、アメリカのブリーダーズカップに挑むなんていうそんなころだ。
大樹の外国産馬ならいざ知らず、友駿の外国産馬はちょっと...って感じで出資しなかった。

デビューの時期が迫ってくる!そして・・・

一口馬主のつらいところは出資してすぐにデビューするわけではないところだろう。
当時からそうだと思うが、調教師の元に入厩してしまうと、もう出資できない。
そう考えて逆算すると、どんなに最短でも1ヵ月はデビューまでに時間はある計算になるし、普通はそうではない。
1~2歳(現在の性齢なら0~1歳)、デビューの1年前に募集を始めてデビューする3歳(現在表記で2歳)の春のうちに募集は終わる。
だから、募集開始直後に出資すれば約1年、ぎりぎりだったとしてもデビューが夏なら3~4カ月、当時はまだ3歳(2歳)デビューは半分、4歳(現在の3歳表記)でデビューするのが半分といったところだし、新馬戦終了後も未出走戦というのがあった時代なので、3歳の夏頃デビューなんて言う馬もいっぱいいた。
また、当時は一口馬主はまだまだ競馬会、馬主会では、邪魔者扱いというか、あまりよく思われていない時代なので、自然にデビューが遅れる傾向にあった(社台RHの競走馬は除く)なので、出資が決まっても、まだまだ自分の愛馬は走らない。1年くらいは入厩すら出てこない。
一口馬主は入会してデビューを迎えるまでのこの1年が一番の苦痛だ。
預託費やクラブ会費の支払いだけが発生し、届く明細は要は請求書のみだ。
この1年をどう耐えるかが勝負と言ってもいい。
ぼくにはクラウンシチーがいた。
すでに重賞を勝っている馬だ。すでに8歳で入会する直前には、タイキブリザードが勝った安田記念でどん尻の18着。
さすがに持っているだけに近いのだが、それでも走ってくれる馬がいるだけで心持ちは全然違うのだ。
しかも、入会してすぐに七夕賞に出走することになり、あわや優勝かという0.1秒差の2着をやってのけた。
安田記念は大樹、そして七夕賞はマイネルブリッツということでラフィアンという一口クラブが勝っているのだ。
マイネル。。。ラフィアン。この時初めて知った。
しかし、マイネル軍団のかつやくは、当時ビッグレッドファームの育成場に坂路ができて、マイネル軍団はこの坂路でビッチリ鍛えているから強いと言われていた。
リーディング1位は言わずと知れた社台RH。2位がラフィアンという時代だ。社台グループに真っ向からぶつかる勝負をしているマイネル軍団。
資料請求の時点で知っていたらマイネル軍団に行っていたかもしれない。
話はクラウンシチーに戻すが、無償プレゼントですでに8歳になっている1/5000のクラウンシチーとはいえ、始めての愛馬がいきなり重賞で2着となった。
これに気を良くしたぼくは、昨年7歳時に勝った京王オータムハンデの記念品である銀のネックレスを買った。
やはり重賞勝ちというのは特別なのだ。

2度目の白山大賞典へ

まだ、自分の出資馬は走っていないぼくだが、友駿の会員になった僕。
今年もキョウトシチーは白山大賞典へ賞金を稼ぎに来た。
昨年の白山大賞典の後浦和記念は勝ったがG1は勝ちきれていないキョウトシチー。
8歳の秋。ここで勝って東京大賞典というのがラストチャンスかもしれない。
僕はというと、去年は友駿会員でもないただの競馬ファンだったが今年は友駿会員だ。
クラウンシチーのネックレスを首からかけ見に行ったのは昨日のように思い出す。
キョウトシチーはしっかり白山大賞典を買って帰った。
自分が出資した馬の中から、こんな馬主孝行な馬が出てきてくれたらいいのにななんて思いながら家路についた。

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